• 纏向にもたらされた外来系の土器は約三割に上り、その内訳は、以下の通りだ。 東海四九%、山陰・北陸一七%、河内一〇%、吉備七%、関東五%、近江五%、西部瀬戸内三%、播磨三%、紀伊一%

    東海と近江を足しただけで、過半数となる。じつは纏向で前方後円墳が誕生し(纏向型)、西日本を中心に広まっていくが、ほぼ同時に近江で前方後方墳(前も後ろも四角)が出現していた。そして、これが東海地方(伊勢湾沿岸)に広まり、さらに、東日本に拡散していった。また、東海系の土器が一気に各地にもたらされていたのである。

    つまり、「前方後方墳文化圏の人びとがまずヤマトに集まり、そこに西から人びとが押し寄せ、前方後円墳が生まれた」ということになる。

    特記しておくが、前方後方墳が生まれた地域は、銅鐸文化圏の中心地であり、住民はそれまで強い王を生みたくなかった人びとだった。彼らは弥生時代(あるいは縄文時代)から継承されてきた流通のネットワークを活かして、格差の少ない平準な社会を形作り、「古い(悪い意味ではなく)」社会秩序を守りつづけていたのだ。西側の権力集約型の社会統合を、真似しなかったのである。つまり、強い王を嫌った人びとがヤマト建国の中心にいたわけである。