• 淡路島の鉄は、淡路島が「西側勢力(北部九州と出雲)の東端」だったことを示していると思う。そう考える根拠は、ふたつある。

    まず第一に、近くに鉄が来ていたことは事実としても、肝心の近畿地方南部で、鉄器がほとんどみつかっていないことには変わりない。そして第二に、淡路島から古いタイプの銅鐸がみつかっていて、それが出雲と同笵だったことなのだ。つまり、出雲と淡路島の間に交流があったことは間違いなく、ヤマト建国直前の淡路島は、出雲と北部九州の「ヤマト圧迫策」の尖兵、最前線だった可能性が高い。

    ちなみにその銅鐸も、周然みつかっている。平成二十七年四月、南あわじ市の石材加工工場の砂置き場で、銅鐸が七個みつかった。松帆銅鐸と名付けられている。

    付着した植物を炭素14年代法で分析すると、紀元前四~紀元前二世紀のものとわかった。古いタイプの「聞く銅鐸」で、銅鮮を鳴らすための棒(舌)もみつかっている。

    松帆銅鐸と兄弟関係にあったのは出雲の加茂岩倉遺跡(島根県雲南市加茂町)や荒神谷遺跡(馬根県出雲市製能町)でみつかった銅鐸だ。

    出雲にとって重要だったのは、淡路島そのものではなく、明石海峡だった。

    「ヤマトから東の勢力」を封じこめるには、瀬戸内海を利用させないことが求められ、そのためには、明石海峡を封鎖するのが手っ取り早かった。そのために、淡路島が必要となったのだろう。ここに鉄を送り込むことで、手懐け、懐柔し、味方にして、東に寝返らないことを約束させたのだろう。


  • 纏向にもたらされた外来系の土器は約三割に上り、その内訳は、以下の通りだ。 東海四九%、山陰・北陸一七%、河内一〇%、吉備七%、関東五%、近江五%、西部瀬戸内三%、播磨三%、紀伊一%

    東海と近江を足しただけで、過半数となる。じつは纏向で前方後円墳が誕生し(纏向型)、西日本を中心に広まっていくが、ほぼ同時に近江で前方後方墳(前も後ろも四角)が出現していた。そして、これが東海地方(伊勢湾沿岸)に広まり、さらに、東日本に拡散していった。また、東海系の土器が一気に各地にもたらされていたのである。

    つまり、「前方後方墳文化圏の人びとがまずヤマトに集まり、そこに西から人びとが押し寄せ、前方後円墳が生まれた」ということになる。

    特記しておくが、前方後方墳が生まれた地域は、銅鐸文化圏の中心地であり、住民はそれまで強い王を生みたくなかった人びとだった。彼らは弥生時代(あるいは縄文時代)から継承されてきた流通のネットワークを活かして、格差の少ない平準な社会を形作り、「古い(悪い意味ではなく)」社会秩序を守りつづけていたのだ。西側の権力集約型の社会統合を、真似しなかったのである。つまり、強い王を嫌った人びとがヤマト建国の中心にいたわけである。


  • 北部九州を中心とした銅矛文化圏と近畿地方から東海地方にかけての銅鐸文化圏である。

    銅矛文化圏では、強く富を貯えた首長(王)が祭器(威信財)を独占し、墓に埋めた。これに対し銅鐸文化圏では、強い王を嫌い、富の集中を防いだようで、銅鐸を巨大化させ、集落全員で祀り、首長に独り占めさせない文化を築き上げたのだった。そしてなぜか、銅鐸文化圏の人びとが結束して、ヤマト建国のきっかけを作ってしまったのだ。


  • 紀元前十世紀後半ごろ、北部九州沿岸部に稲作が伝わり、日本列島は弥生時代に突入した。ただ、かつて信じられていたように「あっという間に列島人全体が農業を選択した」わけではないし、渡来人が日本列島を席巻したわけでもなかった。

    北部九州の縄文人が稲作文化を受け入れてから、数百年の年数をかけて、稲作は関東まで伝わった。その間、各地で、新しい文化を受け入れつつも、縄文的な技術や文化の揺り戻しが起きていたのだ。

    縄文時代後期の寒冷化によって、東に偏って暮らしていた縄文人たちは、西側に移動を開始していて、これが稲作文化の普及の遅れにつながり、日本列島全体からなかなか縄文的な文化と風習が消えなかったひとつの原因になったようなのだ。